神庭半洞窟(かにわはんどうくつ)&神庭鍾乳洞@埼玉県秩父市 2015年2月 

〜再び2年振りに再訪…今回は、更に、探索を深めました〜

では、動画1〜2を連続で御覧下さい。

   

神庭半洞窟(かにわはんどうくつ)&神庭鍾乳洞@埼玉県秩父市 2022年9月 

〜7年振りに再訪…今回は、高画質映像です〜

では、動画を御覧下さい。

   

神庭半洞窟(かにわはんどうくつ)&神庭鍾乳洞@埼玉県秩父市 2012年9月

〜2年振りに再訪…今回は、全行程動画バージョンで♪〜

では、動画を御覧下さい。

   

神庭半洞窟(かにわはんどうくつ)&神庭鍾乳洞@埼玉県秩父市 2010年7月

5年以上前から、行きたいと思いつつ、いつもスルーしていた洞窟へ♪(^o^)v 初めて、この洞窟を知った時、「しんてい」と読むのかと思っていたのですが、「神庭」と書いて、「かにわ」と読みます。読めないなぁ…(-o-#)

 
国道140号を、ひたすら旧大滝村へ。とりあえず、白滝の前で休憩後、オーバーハングを抜けると…

 
画像の急カーブの左側に…あっ\(◎o◎)/! 手前の木が、伐採されたため、最大露出に♪(^o^;)

 
洞窟前の看板の「P」は、進行方向の逆になっていますが、無視♪(^o^;) 目指すは、村営グランド。国道からも、左に見えます。そのため、すぐ先の「大滝神庭交流広場」の標識があるY字路を左折…。旅館の看板のほうが、目立つかなぁ…? 私は、標識に目が行きましたが…(^o^;)

 

そして、村営グランド方向に…。秩父市と合併しても、村営?

1車線幅の道の突き当たりが、村営グランドと駐車場。あいにく駐車場は、閉まってましたので、手前の路肩に路駐。

MapFan以外の地図サイトでは、和田平キャンプ場と表示されていますが(廃屋がありました)…(。_゜)?

ちなみに、そこには、「この先ループ橋」の看板が…(゚゚;)エエッ 一瞬、期待してしまいましたが、どうも雷電廿六木橋で使った看板を、業者が放置したのねぇ…(^o^;)


 
装備を確認。虫除けスプレーを大量に浴びて、いざ出発♪(^o^)v 駐車場を突っ切って、大輪方向に向かいます…

 
すると、いきなり、強烈な畑の香水の香り!(;゚゚)ウッ! 畑もないのに? と思ったら、路上に大量の鹿の糞…(-_-#)

 
左手にグランドを見ながら、息を止めて、一気に通過すると、いきなり資材置き場?(゚゚;)エエッ

 
不安になりながら、進むと、遊歩道…というか、登山道がありました♪(^o^)v 歩いていると、突然、草の中が、カサカサっとしたと思ったら、カエルのような鳴き声と共に、大量のバッタのような虫が、ロケットの如く、空中に飛び出して来ました…(@_@) 結構、デカイ緑色の虫でしたが、クツワムシだったのかなぁ…? ご存じの方、いませんかぁ? 動画を撮ればよかったのですが、余りに気色悪くて、ダッシュで通過してしまって…(-_-#)

 
踏み外したら、十数メートル落下しそうな道を歩き、車を出てから6分。ようやく、洞窟の道標が…。


ふと見上げると、国道から見えた光景が…ヘ(^o^)ノ* それまで、ずっと道を見て歩いていたので…(^o^;)

 
そこから、九十九折りの急坂を登ります…小石で滑るので、結構大変…(-_-#)

 
道標から2分。車から8分で到着♪


神庭半洞窟です。デカイっす! ただ、開口部が広く、奥行きが無いので、外気温と同じで、涼しくありません…(-_-#) 洞窟の名前は、神庭半洞窟ですが、遺跡としての価値が高いので、神庭洞窟遺跡という看板になってました。

 
12,000年前、ここに、縄文人が住んでいたとか…(@_@) マンションの元祖かぁ…(^o^;)  左上画像は、半洞窟左にある穴。右上画像は、右にある穴。右は、2段になっていて、中二階部分は、ちょっとだけ奥行きがあります。そこからは、水が流れていて、小滝になってました。

 


   

大達原(おおだはら)の手掘り隧道@秩父市 2022年9月 大達原稲荷神社駐車場→

現地への誘導標識は、一切ありませんが、秩父市の名所となっている?大達原(おおだはら)の手掘り隧道へ。大達原は、一発変換出来ませんでした…(ToT)

では、動画を御覧下さい。


地形図には、道が描かれていません。予備知識無しで行くと、必ず迷います。ネット検索しても、詳しい道順はわかりませんでした。


車は、大達原稲荷神社駐車場に。向かいに稲荷神社がありますが、賽銭箱は、引き戸を開けた畳の奥でした。登山靴だったので、脱ぐのが大変なので、座敷の上に置かせて頂きました。


目指す隧道は、稲荷神社から国道方向に歩き、最初の道標の強石(こわいし)方向へ。緩やかに上ると、舗装路が途切れますが、そのまま直進。次の道標も直進し、9分で現着します。



手掘りの隧道
昔はもっと上の方に道があり「左三峯道」という道しるべもある。このトンネルの掘られたのは恐らく明治中期以後と思われ、監督は浜平の山中幸四郎(昭和十一年七十七才没)で、何寸掘れば何銭と日当を払ったらしく、どこから入ったか分らない荒くれ人夫を使うのに苦労したと伝えられる。幅員三米四十五、高さ四米八十、長さ四十米五十。大正末年現在の国道一四〇号線の開さくまで、三峯参詣の街道としても重要な役割を果した。
以上、原文のまま